滝から落ちた桃太郎と次郎は生きているのか?
南へ逃れたナンはどうなっていくのか?
桃太郎を含む三つの伝説とは?
そしてウイルスとの関連は?
現代編ではウイルスに翻弄される医療スタッフと、山仲間たちの活躍を主体に物語が進みます。
そして、この章では解決の伏線を散りばめてみました。
第一章 桃太郎は九鬼山を目指す
(4)そして三つの伝説が残った
「小鳥の声が聞こえる…」
ナンは目をこすりながら、布団から顔を出した。
そこは小さく質素な部屋であった。
こんな暖かい布団や、こぎれいな部屋は生れて初めてだ。
障子を通して入ってくる和やかな光が、この空間を満たしている。
ウグイスのさえずりが聞こえた。
「ホーホケ…ホケ…ホケッ」
心地よいさえずりと、中途半端なさえずりが交互に響いている。
くすっ…と思わず笑顔になった。
幼鳥が練習しているのだろう。
「ここはどこなんだろう?」
ふと自分が着ているものが目に入った。
真新しい木綿の着物で、柔らかくて気持ちがいい。
そして布団から体を起こした時、障子の外から人の気配がした。
ゆっくりと障子が開く。
「まだ寝ていなくてはだめよ」
二十歳前後だろうか、若い女性が入ってきた。
女性の穏やかな笑顔にほっとする。
「どうしてここに?」
「あなたは桂川の川べりに倒れていたのよ」
どうもこの家の人に助けられたらしい。
記憶もあいまいだ。
「ここは清兵衛様の家、私はそこの下働きでカエデというの」
「私は…ナン…」
そこでナンは言葉が詰まった。恐ろしい記憶がよみがえる。
九鬼山の鬼憑きの者だとわかったら、何をされるかわからない。
大粒の涙があふれ出した。
しばしの静寂が訪れる。
カエデはナンの頭にそっと手を添える。
驚いたようにナンはカエデを見上げた。
優しい目がナンを包み込んでいる。
「この人なら話しても大丈夫…かな?」
ナンは意を決して、詰まりながらも、それまでのいきさつを話し出した。
いつしかカエデの目にも、涙が浮かんでいた。
親を失くした子供たちの行く末を心配し、仕事の世話をしていたのは有名な話だ。
実はカエデも親を失くした一人で、その縁で下働きをしているのだ。
そんな二人が部屋で対座していた。
「そうか、九鬼山の生き残りか…」
「親も兄弟も失くしたようです」
カエデは話しを続けた。
清兵衛は目を閉じながら腕を組んでいる。
「あれは悲惨な事件だった。儂は鬼憑きなんか信じないが…な」
一陣の風が庭を通り抜ける。
「そうだな、ナンは下働きとして面倒は儂が見よう」
「ありがとうございます、旦那様」
カエデは深く頭を下げた。
「カエデ、お前があの娘の世話をしろ。厳しく育てるのだぞ」
そして5年の歳月が過ぎる。
九鬼山の虐殺の件は、いつのまにか鬼退治の話となっていた。
里の人たちにとっては、都合が悪かったのだろう。
ナン以外に生き残りはいなかったそうだ。
もちろん次郎も…
カエデに鍛えられたナンは、村でも評判の働き者の女性に育っていた。
仕事も早く、周りからも信頼されている。
欠点は口が過ぎることで、自分に厳しく、他人にも厳しいタイプだ。
ここにカエデのような包容力があればいいのだが…
口の悪い人はあれを嫁にすると、家は繁栄するが亭主は大変だな…とか。
昔の事情を知っている人は、本当の鬼嫁だな…とか。
そんなある日、カエデとナンは清兵衛に呼ばれた。
「明日、大切な来客がある。準備をしておいてくれ」
「どなたが来るので?」
「相模の商人で、この地方の絹織物に興味があるとか」
後の江戸時代に郡内縞として人気をはくす織物だ。
まだこの時期では一部で使われるだけだったが。
カエデとナンの多忙な時間の始まりであった。
翌日、商人一行がやってきた。
主人とお付きの若者二人の三人だ。
彼らの接待は、主人の清兵衛とその奥方、絹織物の担当者が主に対応した。
晩秋の日差しが差し込む中、調理場は喧騒の真っただ中だ。
主に配膳は人当たりのいいカエデが、ナンは裏方を担った。
「羽振りのいい方達ですね」
奥座敷から笑い声が聞こえてくる。
カエデはそっとナンに耳打ちした。
身なりや漏れ聞こえる話から、そう判断したようだ。
清兵衛の手を叩く音が聞こえた。
カエデとナンを呼ぶ合図だ。
「料理が美味しい」と商人が調理した人に会いたいのだとか。
「恐れ入ります。ナンでございます」
「おいしい料理だね。特にこのかぼちゃの鍋は体の芯から温まる」
後の武田信玄の時代に広まったほうとう鍋の原型だ。
「ありがとうございます」
カエデの横で顔を伏せていたナンは、ゆっくりと顔を上げた。
確かに羽振りがよさそうな人たちだ。
ふと若者の一人を見たときに、顔がこわばった。
「あっ…」
その後の言葉が続かない。
若者の方も目を見開いている。
「どうかしたのか、ナン?」清兵衛が尋ねる。
「いえ…」消えりそうな声でナンが答えた。
挨拶が終わり奥に戻ったナンの様子がおかしい。
「ナン、大丈夫?」
ナンが背中を丸めてうずくまっている。
「苦し…い…息が…」
カエデが介抱すること数十分後、症状はなんとか治まり始めた。
いまでいう過呼吸を起こしたのだ。
「今日は早く寝なさい。あとは私に任せて…」
青ざめた顔で、ナンは頷いた。
ナンの朝は庭の掃除で始まる。
落ち葉が積もり始めるこの時期は、特に大変な季節だ。
サササッと小気味よい音が、あたりに響く。
そこへ件の若者が通りかかった。
庭を散歩していたようだ。
怯えるナン、じっと見つめる若者。
そう、若者は桃太郎(昔は太郎と呼ばれていたが)であった。
「そんなに怖がらないで…」
近づく桃太郎。後ずさるナン。
「あの時はどうかしていた。なぜ、あんなことをしたのか分からない」
ナンはじっと桃太郎を睨んだままだ。
「おらも里のみんなも、今は後悔しているんだ」
桃太郎は続ける。
「あの後、おらは里にいるのが辛くなり、相模の商人へ奉公した。それが今のご主人だ」
風に揺れる竹笹の音だけが響く中で、二人は見つめあっていた。
というよりは、睨みあっていたというほうが正解だろう。
おもむろに、ナンが口を開いた。
「許さない…お父もお母も、そして兄さんも死んだ、殺された!」
「おまえは自分のお父さえ突き落とした!」
そう言い残すとナンは母屋を振り返り走り去る。
積められていた落ち葉の山がゆっくりと、風に散っていった。
その場に残された桃太郎は、ふとつぶやいた。
崩れゆく落ち葉の山を見ながら…
「ナンだけは助けようと探した。好きだった…」
しばらく滞在した商人一行は、数日後に相模に旅立った。
絹織物の取引は順調に決まったようだ。
それからのナンは、時々ふさぎ込むことが多くなった。
カエデはかなり心配していたが、ナンからは何も聞けない。
ナンもこのことで、清兵衛に迷惑をかけることはできないと口を閉ざしていた。
大切な絹織物の取引があるからだ。
そんなある日、清兵衛がお酒の入った壺をかかえてきた。
「そろそろ飲みごろだろう。」
「カエデ、今日は寒いから親戚との夕食に出そうと思う」
「旦那様、それはどうされたのですか?」
「先だっての商人から頂いたんだよ。なんでも甘いお酒らしい」
「あら、いいですね。私も飲みたいぐらい…」
「ははは、みんなの分もあるから、あとの楽しみにね」
二人の笑いをよそに、ナンは首をかしげた。
その壺をどこかで見た記憶があったのだ。
「どこだったかな?」
夕食の準備が終わり配膳していたナンとカエデ。
カエデが壺からお酒を汲み、来客と清兵衛の椀に注いでいく。
ナンはモヤモヤしたものをその壺に感じていた。
そして、不意にあの、あの岩殿山の遠い記憶がよみがえる。
「あの壺は…あの壺は、あの時の…」
あの中の飲み物を飲んだあと、太郎はおかしくなったのだ。
「いけない!」
今にも飲もうとしていた来客にナンは飛びついた。
その拍子に来客は倒れ膳が壊れる。
その場は大混乱となった。
その夜、ナンは清兵衛にこっぴどく叱られた。
いままで、こんなに叱られたことはなかったのに。
大切な来客だったし、膳は来客用のとっておきの物だったのだ。
さすがのカエデも庇うことができない。
なぜなら理由をナンが話さないからだ。
翌日の朝、近くの淵のそばで若い女性がしゃがみこんでいた。
降り始めた雪が、袖の上に落ちては消えていく。
「初雪…」
ナンは昨日のことで、かなり憔悴していた。
「旦那様にちゃんと話をすればよかったかな…」
しばらくして立ち上がったが、足取りは重い。
と、その時、足が滑る。
ドボン!
一陣の風が吹き抜けた。
「ホーホケキョ」
季節外れのウグイスの鳴き声が響いた。
そしてその場には、片足だけの赤い鼻緒の草履が残っていた。
都留市付近には、三つの伝説が残ることに。
ひとつはナンが消えた淵、現在はおなん淵と呼ばれている淵です。
長者が大切にしていた膳を壊して叱られたおなんが、身投げしたとか…
そして太郎と次郎が落ちた滝は、現在は太郎次郎滝として残っています。
こちらの太郎と次郎は盗賊で、追っ手に追われた落ちたとか…
岩殿山・九鬼山の桃太郎の話は、この地方に古くから残っています。
特に桃太郎の話に出てくる地名が、他と比べて多く残っているのが特徴。
大月周辺は当時は都留と呼ばれ、古くから開けていたそうです。
筆者は、岡山の方には怒られるかもしれませんが、大月の桃太郎伝説がおとぎ話の原型ではないかと考えています。