ゆっくりと移りゆくおなん淵を描きます。
次回からの現代編の緊迫感と対比させたいかなと…
懲りすぎ?
第一章 桃太郎は九鬼山を目指す
(5)春に想う
「寒い…」
水辺にたたずむカエデは手の平をすり合わせる。
春も中盤だというのに、今日は風が強く寒い日であった。
ナンが消えた淵は、いつしかおなん淵と呼ばれるようになっている。
遠くの鳥の声に、くすっと笑う。
「ホーホケ…ホケ…ホケッ」
ナンの話に涙したあの日も、幼鳥が練習していたなぁ~と。
ウグイスのさえずりは、求愛の鳴き声だ。
上手く鳴けるかどうかで、子孫を残せるかどうかが決まる。
必死の鳴き声が続く。
カエデは毎年、この日になるとこの場所へ来ることにしていた。
「カエデさ~ん」とナンが突然現れるのではないかと…
出会った、まさにこの日に願掛けしているのだ。
「今年もまた、待ちぼうけかな?」
カエデは目を落とす。
ナンの草履が残されていた足元の場所には、ちょうど二輪草が揺れていた。
大きな花が、風から小さな花を庇うように揺れている。
小さいほうの花がナンで、大きい花が自分かな?
何気なく、そんな事を考えるカエデであった。
「カエデさ~ん」遠くで声が聞こえた。
残念ながら男の声だ。
数日前に商売で泊りに来ている桃太郎だった。
彼は毎年、雪解けのこの時期になると清兵衛の家へやってくる。
今や彼がこの地の取引をすべて任されているのだ。
桃太郎はカエデの横に並んだ。
二人は水面に浮かぶ枯葉を眺めていた。
風にくるくる回転していた。
しばらく静寂の時が過ぎる。
「ここがナンが消えた場所なんだね」
カエデは頷くだけだった。
九鬼山の事件を知っているカエデは、当初は桃太郎に距離を置いていた。
その後、何度も会ううちに、そう桃太郎の話を聞くうちに、不幸なすれ違いの事件だったと思うようになっていた。
目の前の桃太郎が、虐殺を行った人物だとは思えなくなっていたのだ。
なぜなら彼が話すナンの話は、愛情に溢れていたから。
「もう戻りましょう」
カエデが先に立ち上る。
二人は、春の日差しを全身に浴びながら歩き始めた。
春風は一年の始まりを感じさせる。
今日の風は、そんな始まりを伝える風かもしれない。
それから五年の歳月が流れた。
女の子が一人、おなん淵で二輪草を摘んでいる。
彼女は赤い鼻緒の草履を履いていた。